「なりきりプリンセス」を読んで


 神楽陽子による、2冊目の二次元ドリーム文庫。刊行は2005年7月で、通し番号は22。
 今回は単刀直入に、まずあらすじを引用する。

 性奴のアリアは、瓜二つの容姿を持つワガママ姫・ミシェラの代わりに王女として生活することに。だがエッチな少女は騎士や王様に次々と淫らな奉仕を施し、戴冠式でも淫靡な姿で大騒動を巻き起こすのだった!

 1冊を読んだ立場としては、たしかにそういう話だった、でも本当にそんな簡単な話だったっけ、とも思う。話が(エロ小説としての)本筋に入るまで、これから俺はちょっとした大河ファンタジー小説を読まされるのかな、というくらいの導入があった。(エロ小説的に)いらないんじゃないか、と思わなくもないが、結局はどんな世界観であってもやることは一緒なエロ小説であればこそ、世界観にこだわる必要があるのだ、という説もある。これは同レーベルでハーレムシリーズを展開する竹内けんがインタビューで述べていたことで、読んだとき、なるほどなあと感じ入ったのでよく覚えている。
 ちなみにだが、竹内けんによるハーレムシリーズの1作目「ハーレムキャッスル」は、通し番号18でこの年の5月に刊行されている。そしてこの月には、屋形宗慶による「放課後リビドー 君もおいでよH研」も同時刊行されており、どうもこのあたりから二次元ドリーム文庫は、二次元ドリームノベルスの延長ではない、主人公の男の子に複数の女の子が群がるという、独自の路線を歩み出しつつあったのではないかと考察されるのだが、そうは言ってもまだまだ草創期であり、そこからスパッと方向転換したわけではなく、刊行順としてはそれらのあととなる今回の神楽陽子作品は、まだだいぶ二次元ドリームノベルスの色合いを強く残している。
 あらすじにあるように、物語の主人公は性奴であるアリアという少女である。性奴というワードが、ルビもなく、当たり前のように出てきて、そしてこちらも当たり前のように受け止めるのだが、「せいど」と打ち込んでも変換されないし、もしかすると世間的には馴染みのない言葉かもしれない。要するに性奴隷のことである。性奴隷だって十分に特殊な業界の言葉のような気がしないでもないが、たとえこれまでその概念がなかったとしても、字面から「性的な奴隷なのだな」ということは察せられると思う。ただし今般、性奴隷という言葉は、性に溺れた、性器を見せつけられると絶対服従してしまう、いわゆる「お前はもうちんこの奴隷だな」の、要するにただの重度の淫売のようなイメージになっているが、今回のお話というのは、ずいぶん世界観の設定が練られたファンタジー世界が舞台なので、少女アリアは生まれながらにして、社会的身分として紛うことなき奴隷であり、それも娼館に所有されている、性的な方面専門の奴隷だ、ということを断っておく。つまり端的に言えば遊女みたいなものだ。ただしアリアに、この境遇から想像されるような悲壮感は一切ないということもまた、この物語にとって重要なファクターなので、そのことも注釈しておく。それがいいことなのかどうなのかは難しい問題になってくるが、アリアは本当に生まれた頃からその環境の中に在るので、自分の立場に引け目などないし、性的な行為は自分の存在意義であり、生きがいであると感じでいる。男を気持ちよくさせると嬉しいし、それは同時に自分の気持ちよさにも繋がり、しかもそれをすると食べ物がもらえる。いいこと尽くめだとアリアは心の底から信じ、日々を暮している。
 これは本当にハッとさせられる観念で、二次元ドリーム文庫の黎明期であったからこそ生まれ得た性奴隷少女という主人公像は、こののちこのレーベルにおいて何百人、何千人と現れる、社会的地位こそ奴隷ではないが、男主人公のぱぱぼとるの奴隷となる少女たちの、剥き出しの始祖的な存在であると言える。前作「聖魔ちぇんじ!」の感想文の際に述べたように、二次元ドリーム文庫は基本的に、『女の子もエロい』『女の子は男性器および精液が大好き』『女の子は常にエッチなことをするきっかけを求めている』という三憲章の下、紡がれているわけだが、この憲章の下で紡がれる世界の憂いのなさこそが、われわれ読者を二次元ドリーム文庫に惹きつける理由なのだろうと思う。そしてアリアはその象徴であると言える。
 あらすじに戻ると、アリアは王国の姫、ミシェラと瓜二つの外見をしており、国外に遊びに行きたいミシェラはアリアの噂を聞きつけ、身代わりを依頼する。これによりアリアが姫として城内で暮すこととなる。これが普通のファンタジー小説であれば、アリア本人か、あるいはアリアを利用する悪者によって、そのまま姫になりすまして王国を乗っ取る、みたいな展開になるに違いないが、もちろん二次元ドリーム文庫ではそんなことにはならない。アリアは生きることと性欲の充足がイコールなので、宮廷内でもその活動を我慢することはない。するはずがないのだ。アリアにとって性は、まったく禁忌ではないからだ。むしろこのように考える。自分のような奴隷でさえあのくらいのことをするのだから、国の中心にいる偉い人たちなんかは、もっととんでもないことをするに違いない。お姫様の身代わりをしている以上、疑われないようにそっちの役割も立派に果たさなければ、と。この完全なる勘違いこそが、この物語の骨子である。ただし普通の物語であれば、その勘違いをした主人公が起す行為は、相手に受け入れられず、はしたない姫がいたものだ、という滑稽話で終わるだろう。しかしこれは二次元ドリーム文庫である。姫の性的な誘いを、王宮の人間たちは、はじめは戸惑いを見せつつも、結果的には応じることとなる。お付きの騎士、大臣、そして果ては姫の実の父である国王までも。こうして考えたとき、二次元ドリーム文庫というレーベルの強みを改めて感じる。若い姫が向こうからモーションをかけてきたら、男ならば応じるのが当然だ。でも普通の物語では、それは描けない。この世は性によってのみ維持され、成立しているというのに、その根源的な部分を描けない。だとすればそれはなんて脆弱で無意味な表現であろうか。アリアは一国の王に、実の娘(と信じ込ませている自分)を抱かせるという究極の禁忌を犯させることで、性を描かない、しかし性を放埓に描く物語よりも格が上であるとされる、一般的な創作物という権威を嘲笑っているのかもしれない。あるいは、みんな、みんなどうせ、脚の間に棒か穴かがあって、それをどうにかしたいってことばっかりずっと考えてるくせに、別にそんなことありませんよって顔しちゃってさ! という叫びかもしれない。
 物語は戴冠式の日へと進み、ここでミシェラ姫は王位を継承するはずだったのだが、帰還が遅れてアリアとの交代がスムーズにいかなかったせいで、戴冠式はめくるめく性の饗宴となってしまう。前作でもあった、無数の男に囲まれて精液まみれになる、二次元ドリームノベルスからの伝統芸のようなシーンである。そしてここではとうとう、本物のミシェラ姫もまた、アリアとともに性欲に溺れることとなる。その前にアリアの痴態を眺めていて、すっかり発情していたからである。もちろんミシェラは処女なのだが、しかし三憲章を思い出してほしい。処女の姫だろうがなんだろうが、女の子はいつだって性欲に溺れるきっかけを求めているのだ。ふたりの少女の興奮は、やがて戴冠式を見物しに来た観客にまで伝播し、『オルティッツ公国の威信をかけた戴冠式が、いまや国民総出のセックス祭。』(原文)となる。
 そのあとの顛末はどうなったかと言えば、騒動の原因であるアリアだったが、なんだかんだで許され、ミシェラとは仲良く過し、そして夜は王宮内で、お姫様そっくりの売女として家臣たちの歪んだ性欲の相手をするのだった、というハッピーなエンディングで、直接の描写はないけれど、お姫様そっくりの売女は、時としてひそかにお姫様本人なのだろうなあ、ということも窺わせるのだった。
 つまり前作「聖魔ちぇんじ」と一緒で、やはりとことん、『女の子もエロい』というモットーで、そしてそれこそがこの世の唯一最強の平和の法則なのだという、確固たる理念によって書かれた物語だな、ということを感じた2冊目だった。すばらしかった。
 ただし冒頭でも書いたように、レーベルの方向性はだんだん定まりつつあり、女の子が主人公で、無数の男を相手にする、というスタイルの作品は、神楽陽子に関してはここまでで、このあとは基本的にひとりの男を相手に展開する物語となる。それはもちろんかなり重要な転換点なのだが、しかしそれは決して価値観がひっくり返るような変化ではない。理念はもちろん継承された上で、物語の形式は流転する。次作以降の感想文でそれについて語っていこうと思う。