「ラヴパラ ラヴハートパラダイス」を読んで

 
 3冊目。刊行は2005年10月で、レーベルの通し番号は29。前作「なりきりプリンセス」から3ヶ月しか間が空いておらず、それでいて通し番号は7も進んでいるわけで、当時の二次元ドリーム文庫のイケイケさがここからも伝わってくる。実際はこのあとさらに隆盛を極める時期もあるのだが、実はつい先ごろ二次元ドリーム文庫に、2023年11月以来、ほとんど2年ぶりの新作が刊行されるという出来事があったので、やけに感慨深く思ったのだった。
 今回もはじめにあらすじを引用する。

 ボクの家に三人の美少女戦士・ラヴハートがやってきた!? 突如始まった夢のような同居生活。彼女たちのきわどいコスチュームと豊満な肢体に理性を刺激され、さらには連日連夜淫らな遊戯を迫られる少年。やがて家中は愛欲のパラダイスに染まっていく!

 前作に較べ、とても簡潔な設定である。主人公の少年・衛の家に、彼を慕う美少女戦士の3人が押し掛け、ひたすら愛欲の日々を送る。以上である。ちなみに衛の両親はお約束の海外赴任によって家におらず、少年はひとり暮しをしている。
 なんて安易でご都合主義のエロ小説か、と思われるかもしれないが、一連の流れで考えたとき、この設定にこそ神楽陽子の表現者としての気概を感じられると思う。
 前回の「なりきりプリンセス」の感想文で、『女の子が主人公で、無数の男を相手にする、というスタイルの作品は、神楽陽子に関してはここまでで、このあとは基本的にひとりの男を相手に展開する物語となる』と書いた。それはつまり二次元ドリーム文庫が、二次元ドリームノベルスと袂を分ったことを意味するが、元来がノベルスの作者であった神楽陽子は、そのことに対して特別な思いがあったのだろうと推察される。それゆえに、その記念碑的な意図によってこの作品は紡がれたに違いない。
 着目すべきは、ヒロインとなる3人の女の子たちは、みなラヴハートという美少女戦士なのだが、その戦いはこの物語の開始時点で終わっている、という点だ。その顛末は、冒頭の数行で説明されている。

 杏樹はラヴハート・アンジェとなって、己の使命を知った。そして同じく目覚めた仲間と力を合わせ、魔の眷属たちを封印することに成功する。謎の美少女戦士が噂になることもあったが、あくまで噂、人知れず闘いは終結した。
 いま、杏樹は「普通の女の子」として平和な日々を送っている。

 この数行こそが、二次元ドリームノベルスからの独立のモニュメントであり、いままさに目の前の大海原に繰り出すのだという、若き二次元ドリーム文庫の声高な布告であろうと思う。
 美少女3人によるラヴハートのコスチュームは、それぞれあられもない部分が欠如した、露出過多の全身タイツで、しかもそれは表面積が小さい一方で、防具としての役割のためか、きわめて硬い繊維でできており、それはさながら亀甲縛りのように、動くたびに少女たちの身体に刺激を与えるという。つまりこれは、どこまでも二次元ドリームノベルスの文脈で考えられた衣装であり、ラヴハートたちはこれを着て魔の眷属と戦っていた際、それはもう無数の魔物や、あるいは触手によって、穴という穴を犯されたに違いないのだった(ただしのちの衛とのセックス描写によると、全員処女だった。説明はなかったが、美少女戦士は処女膜もまた再生するのだと理解した)。
 しかしそれは一切描かれない。魔の眷属たちは既に封印されている。なぜか。それはこの物語が、二次元ドリーム文庫というレーベルで発売されたからだ。二次元ドリーム文庫では、無数の魔物や触手によって、エロエロコスチュームの少女が穴という穴を犯されるシーンは、描かれない。その代わり戦いを終えた少女たちは、思いを寄せる少年のもとへと押し掛け、そこで少年を中心にしたハーレムストーリーが展開される。これからはもうそういう時代なのだということが、とても明確に示唆されているのだった。
 かつ、この美少女戦士という設定は、三憲章のひとつ、『女の子は常にエッチなことをするきっかけを求めている』にも作用し、少女たちはそれぞれ衛と同じ学園に通っており、そして好意を持っているが、しかしそこから先へ踏み出すきっかけが持てず、少年との関係を深められずにいたわけだが、魔の眷属を封印したあと、平和になった世界で、もう不要となった美少女戦士という設定こそが、ともすれば魔の眷属よりも手強い、大好きな男の子とエッチなことをしたいけど勇気が出せないという少女たちの葛藤を、軽々と封印してくれるのだ。すなわち、変身後の美少女戦士としてなら、少年とスケベなことをし放題である、と。
 これは第1作「聖魔ちぇんじ!」の翠と一緒で、神楽陽子はやはりそこが真摯というか、元来スケベな女の子が、しかしスケベさを顕出しづらい現代社会で、いかに「いいんだよ」というきっかけを得るかという、その説明が丁寧だし、なにより優しい。そう、優しさなのだ。神楽陽子はキャラクターの女の子たちに対していつも優しい。その優しさこそが物語世界を心地よいものにし、それゆえに僕は神楽陽子作品が好きなのだとしみじみと思う。
 ちなみにキャラクターの女の子に対して優しくないエロ小説の筆頭は「孕ませ」であるというのに異論はないと思うが、少なくとも二次元ドリーム文庫における神楽陽子作品に、孕ませは存在しない。ただしこの作品に登場する女の子のうちのひとり、杏樹ことラヴハート・アンジェには、母乳が出るという設定がある。それに対する説明はこうである。

 ラヴハートの有する魔力がホルモンのバランスに影響を与え、胸肉をここまで育てたのみならず、こうしてミルクを搾り出すことも可能なのである。もっとも、母乳の分泌はアンジェだけに限定される。

 美少女戦士という設定はすごく便利だな、と思う。美少女戦士だから際どい衣装だし、母乳も出る。なにか文句あっか、という話だ。ジョージ・ルーカスの、宇宙では空気がないから音なんか出ないのではないかという指摘に対する、「俺の宇宙では出るんだよ」にも似た痛快さがある。あるいはしずかちゃんをなるべく裸にしたいFが編み出した、「しずかちゃんは大のお風呂好き」という設定のようだ。作者がどうしてもかなえたい部分は、力技でねじ伏せればいいのだ。経産婦にするわけにはいかないけど、母乳プレイがしたかったのだ。実際、ラヴハートの他のふたり、口淫が得意なクール系ショートカット美少女ユラと、最も体が小さいのに最も胸が大きい無邪気系ツインテール美少女リリアンに対し、メイン的な扱いであるがゆえにいまいち特出したポイントに欠けるアンジェには、どうしたって母乳という武器が必要だったのだろうと思う。
 さらに言えば、前作までは無数の男たちによる度重なる射精という派手なシーンがあったが、今作からは男がひとりなので、もちろん主人公の射精量は一般平均に較べて並外れているとは言え、どうしたって迫力不足にならざるを得ず、そこに二次元ドリームノベルス畑でこれまでやってきた神楽陽子は、若干の不安があったのではないかと思われるが、アンジェの母乳はその部分もカバーし、主人公の射精ののち、女の子たちも追って果ててゆく中で、アンジェだけは昇天の際に、『張り詰めた桜色の突起から大量噴射を開始する。』のである。
 衛の射精はこうである。

 ビュルルルルル! ドプッ! ドプドプドプドプ! ビュクビュクッ!
 ビクン! ドビュビュビュビュビュ! ビクビクビクッドクドクドクドク!

 2行である。ちなみにこれまで文字を絵のように眺めていたのか、あまり意識していなかったが、今回こうやって一字一句を間違えないよう打ち込んでみて、なんだこれ、といまさらながら思った。ただし今回は話が散漫になるので、シャノマトペ(僕が過去に考えた造語である)についてはまた別の機会でじっくり語ろうと思う。
 続いてアンジェの母乳の噴射はこうである。

 ドプドプドプドプ! ドクドクドク、ドクン! ドクン! ドクン!

 ほぼ一緒であり、やはりこれは個人競技となった射精の補完のために生み出された技法なのだな、と思う。その一方で、アンジェの後半の『ドクン! ドクン! ドクン!』の部分に、射精にはない、少女の胸の疼きのような気配をうっすらと感じ、それに対してほとんどの人類がまだ至っていない境地の美意識が刺激される感じがなくもない。もう自分でもなにを言っているのかよく分からない。
 そんなわけで今作は、何度も言うように二次元ドリーム文庫と二次元ドリームノベルスがいよいよ明確に分離してゆく中にあって、神楽陽子がそのことを高々と宣言する、過ぎ去ったノベルスに8回、新しい文庫に8回、締めて16回の鐘を鳴らす、16点鐘のような作品になっており、とても重要な1冊であると言える。

「なりきりプリンセス」を読んで


 神楽陽子による、2冊目の二次元ドリーム文庫。刊行は2005年7月で、通し番号は22。
 今回は単刀直入に、まずあらすじを引用する。

 性奴のアリアは、瓜二つの容姿を持つワガママ姫・ミシェラの代わりに王女として生活することに。だがエッチな少女は騎士や王様に次々と淫らな奉仕を施し、戴冠式でも淫靡な姿で大騒動を巻き起こすのだった!

 1冊を読んだ立場としては、たしかにそういう話だった、でも本当にそんな簡単な話だったっけ、とも思う。話が(エロ小説としての)本筋に入るまで、これから俺はちょっとした大河ファンタジー小説を読まされるのかな、というくらいの導入があった。(エロ小説的に)いらないんじゃないか、と思わなくもないが、結局はどんな世界観であってもやることは一緒なエロ小説であればこそ、世界観にこだわる必要があるのだ、という説もある。これは同レーベルでハーレムシリーズを展開する竹内けんがインタビューで述べていたことで、読んだとき、なるほどなあと感じ入ったのでよく覚えている。
 ちなみにだが、竹内けんによるハーレムシリーズの1作目「ハーレムキャッスル」は、通し番号18でこの年の5月に刊行されている。そしてこの月には、屋形宗慶による「放課後リビドー 君もおいでよH研」も同時刊行されており、どうもこのあたりから二次元ドリーム文庫は、二次元ドリームノベルスの延長ではない、主人公の男の子に複数の女の子が群がるという、独自の路線を歩み出しつつあったのではないかと考察されるのだが、そうは言ってもまだまだ草創期であり、そこからスパッと方向転換したわけではなく、刊行順としてはそれらのあととなる今回の神楽陽子作品は、まだだいぶ二次元ドリームノベルスの色合いを強く残している。
 あらすじにあるように、物語の主人公は性奴であるアリアという少女である。性奴というワードが、ルビもなく、当たり前のように出てきて、そしてこちらも当たり前のように受け止めるのだが、「せいど」と打ち込んでも変換されないし、もしかすると世間的には馴染みのない言葉かもしれない。要するに性奴隷のことである。性奴隷だって十分に特殊な業界の言葉のような気がしないでもないが、たとえこれまでその概念がなかったとしても、字面から「性的な奴隷なのだな」ということは察せられると思う。ただし今般、性奴隷という言葉は、性に溺れた、性器を見せつけられると絶対服従してしまう、いわゆる「お前はもうちんこの奴隷だな」の、要するにただの重度の淫売のようなイメージになっているが、今回のお話というのは、ずいぶん世界観の設定が練られたファンタジー世界が舞台なので、少女アリアは生まれながらにして、社会的身分として紛うことなき奴隷であり、それも娼館に所有されている、性的な方面専門の奴隷だ、ということを断っておく。つまり端的に言えば遊女みたいなものだ。ただしアリアに、この境遇から想像されるような悲壮感は一切ないということもまた、この物語にとって重要なファクターなので、そのことも注釈しておく。それがいいことなのかどうなのかは難しい問題になってくるが、アリアは本当に生まれた頃からその環境の中に在るので、自分の立場に引け目などないし、性的な行為は自分の存在意義であり、生きがいであると感じでいる。男を気持ちよくさせると嬉しいし、それは同時に自分の気持ちよさにも繋がり、しかもそれをすると食べ物がもらえる。いいこと尽くめだとアリアは心の底から信じ、日々を暮している。
 これは本当にハッとさせられる観念で、二次元ドリーム文庫の黎明期であったからこそ生まれ得た性奴隷少女という主人公像は、こののちこのレーベルにおいて何百人、何千人と現れる、社会的地位こそ奴隷ではないが、男主人公のぱぱぼとるの奴隷となる少女たちの、剥き出しの始祖的な存在であると言える。前作「聖魔ちぇんじ!」の感想文の際に述べたように、二次元ドリーム文庫は基本的に、『女の子もエロい』『女の子は男性器および精液が大好き』『女の子は常にエッチなことをするきっかけを求めている』という三憲章の下、紡がれているわけだが、この憲章の下で紡がれる世界の憂いのなさこそが、われわれ読者を二次元ドリーム文庫に惹きつける理由なのだろうと思う。そしてアリアはその象徴であると言える。
 あらすじに戻ると、アリアは王国の姫、ミシェラと瓜二つの外見をしており、国外に遊びに行きたいミシェラはアリアの噂を聞きつけ、身代わりを依頼する。これによりアリアが姫として城内で暮すこととなる。これが普通のファンタジー小説であれば、アリア本人か、あるいはアリアを利用する悪者によって、そのまま姫になりすまして王国を乗っ取る、みたいな展開になるに違いないが、もちろん二次元ドリーム文庫ではそんなことにはならない。アリアは生きることと性欲の充足がイコールなので、宮廷内でもその活動を我慢することはない。するはずがないのだ。アリアにとって性は、まったく禁忌ではないからだ。むしろこのように考える。自分のような奴隷でさえあのくらいのことをするのだから、国の中心にいる偉い人たちなんかは、もっととんでもないことをするに違いない。お姫様の身代わりをしている以上、疑われないようにそっちの役割も立派に果たさなければ、と。この完全なる勘違いこそが、この物語の骨子である。ただし普通の物語であれば、その勘違いをした主人公が起す行為は、相手に受け入れられず、はしたない姫がいたものだ、という滑稽話で終わるだろう。しかしこれは二次元ドリーム文庫である。姫の性的な誘いを、王宮の人間たちは、はじめは戸惑いを見せつつも、結果的には応じることとなる。お付きの騎士、大臣、そして果ては姫の実の父である国王までも。こうして考えたとき、二次元ドリーム文庫というレーベルの強みを改めて感じる。若い姫が向こうからモーションをかけてきたら、男ならば応じるのが当然だ。でも普通の物語では、それは描けない。この世は性によってのみ維持され、成立しているというのに、その根源的な部分を描けない。だとすればそれはなんて脆弱で無意味な表現であろうか。アリアは一国の王に、実の娘(と信じ込ませている自分)を抱かせるという究極の禁忌を犯させることで、性を描かない、しかし性を放埓に描く物語よりも格が上であるとされる、一般的な創作物という権威を嘲笑っているのかもしれない。あるいは、みんな、みんなどうせ、脚の間に棒か穴かがあって、それをどうにかしたいってことばっかりずっと考えてるくせに、別にそんなことありませんよって顔しちゃってさ! という叫びかもしれない。
 物語は戴冠式の日へと進み、ここでミシェラ姫は王位を継承するはずだったのだが、帰還が遅れてアリアとの交代がスムーズにいかなかったせいで、戴冠式はめくるめく性の饗宴となってしまう。前作でもあった、無数の男に囲まれて精液まみれになる、二次元ドリームノベルスからの伝統芸のようなシーンである。そしてここではとうとう、本物のミシェラ姫もまた、アリアとともに性欲に溺れることとなる。その前にアリアの痴態を眺めていて、すっかり発情していたからである。もちろんミシェラは処女なのだが、しかし三憲章を思い出してほしい。処女の姫だろうがなんだろうが、女の子はいつだって性欲に溺れるきっかけを求めているのだ。ふたりの少女の興奮は、やがて戴冠式を見物しに来た観客にまで伝播し、『オルティッツ公国の威信をかけた戴冠式が、いまや国民総出のセックス祭。』(原文)となる。
 そのあとの顛末はどうなったかと言えば、騒動の原因であるアリアだったが、なんだかんだで許され、ミシェラとは仲良く過し、そして夜は王宮内で、お姫様そっくりの売女として家臣たちの歪んだ性欲の相手をするのだった、というハッピーなエンディングで、直接の描写はないけれど、お姫様そっくりの売女は、時としてひそかにお姫様本人なのだろうなあ、ということも窺わせるのだった。
 つまり前作「聖魔ちぇんじ」と一緒で、やはりとことん、『女の子もエロい』というモットーで、そしてそれこそがこの世の唯一最強の平和の法則なのだという、確固たる理念によって書かれた物語だな、ということを感じた2冊目だった。すばらしかった。
 ただし冒頭でも書いたように、レーベルの方向性はだんだん定まりつつあり、女の子が主人公で、無数の男を相手にする、というスタイルの作品は、神楽陽子に関してはここまでで、このあとは基本的にひとりの男を相手に展開する物語となる。それはもちろんかなり重要な転換点なのだが、しかしそれは決して価値観がひっくり返るような変化ではない。理念はもちろん継承された上で、物語の形式は流転する。次作以降の感想文でそれについて語っていこうと思う。
 

「聖魔ちぇんじ!」を読んで


 神楽陽子における二次元ドリーム文庫の1冊目である。レーベルの通し番号は栄光の一桁台、「09」。発売は2004年の12月で、もう20年以上前ということになる。ちなみに2004年のベストセラーは、「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」「世界の中心で、愛を叫ぶ」「バカの壁」などで、そういう時代に二次元ドリーム文庫はその歴史が始まったのだった。当時、僕は大学3年生。であればちょうど書店でバイトを始めた時期ということになり、それから8年余り続く僕の書店員ライフと二次元ドリーム文庫は、二重螺旋のように濃密に絡まり合うことが運命づけられていたのかもしれないと思えてくる。
 もっとも僕が二次元ドリーム文庫を「発見」するのはもう少し先のことであり、それ以前の古い刊行物は、あとから遡って手に入れ、読んだのだった。当然、著者1冊目であるこの作もそのひとつだ。ちなみに、これはあえて言うまでもないことのように思えるが、先ほどから言っている1冊目というのは、あくまで二次元ドリーム文庫に限っての話であり、神楽陽子はそれ以前に二次元ドリームノベルスのほうで著作を出している。
 神楽陽子の二次元ドリーム文庫作品を読み返し、感想文を書いてゆくにあたり、この二次元ドリームノベルスという存在に触れないわけにはいかない。
 二次元ドリームノベルスは、前世紀から刊行が始まり、そしてなんと文庫が休眠した現在においても、デジタルながら新作が刊行され続けている、もはや妖怪のようなレーベルであり、僕はこちらに関してはほとんど手を出していないのだが、その大体の特徴としては、「主人公は女の子」であり、それは「魔法少女だったり女戦士だったり女性捜査官だったり」し、そして「圧倒的な力を持っていたり、大人数だったりする男性、あるいは触手」に、「ひたすら蹂躙される」、という内容となっており、いまも刊行され続けているということは、この様式に対して本当に根強い支持層が存在するということになる。野球も、相撲も、いつまで同じことやっとんねん、などと思ったりするが、本当に心の底から好きだったら、同じことが同じように、いつまでも営まれ続けていることほど尊いことはないだろうと思う。刊行がストップしてしまった二次元ドリーム文庫好きとして、しみじみとそう思う。
 二次元ドリーム文庫は、ノベルスから独立し、そして結果として行き詰ってしまったわけだが、そんな僕の愛した、二次元ドリーム文庫のオリジナル色が出る前、つまり独立した直後は、まだだいぶノベルスの雰囲気を残していた。そもそもの編集部としてのコンセプトがどういうものだったのかはもちろん判らないが、独自色を出そうという意図はあまりなく、文庫判なのでノベルス判よりも持ち運びやすい、くらいのコンセプトだったのかもしれない。
 そんな長い前置きのあとで、話はようやく「聖魔ちぇんじ!」の内容へと至る。
 あらすじはこうである。

 正義の変身ヒロインと悪戯好きな悪魔っ娘。ライバル同士の二人の身体がとある事件で突然チェンジ!二人それぞれに「コイツの身体をエッチな目に遭わせちゃえ!」と巻き起こしていくハプニングの数々に、街はもう大混乱!?

 登場人物は、ホーリーハートに変身して町を守る鹿島翠と、悪魔の少女ナナコ=アラストル、そして翠の幼なじみである舞木祐一。あらすじにあるように、天使と悪魔的な少女ふたりが、格闘の末に精神が入れ替わってしまう。そこで、それぞれにとって憎い相手である互いの身体を使い、貶めてやろうと痴女行為を行なう、というのがこの物語のストーリーである。
 後世の二次元ドリーム文庫読みとしては、翠の幼なじみである祐一を取り合う展開となるのだな、と確信するのだが、ノベルスの遺伝子を色濃く残す初期作はそう一筋縄ではいかず、翠の身体になったナナコが、その晩に祐一を誘惑して行為に至るまでは想像通りだったが、そのシーンを目撃してしまった、ナナコの身体になっている翠は、なぜかそこに乱入することはなく、深夜の公園へと飛び出し、そこで見知らぬ汚いおっさんと、なんの愛情もないセックスをしてしまう。ナナコはサキュバス的な悪魔という設定のようで、男性経験は豊富なのだが(この設定もまた、のちの二次元ドリーム文庫読みとしては衝撃がある)、身体こそナナコのものでも、精神は処女である翠である。それなのにこんなひどいセックスで快楽を覚えてしまうなんて、これは淫売なナナコの身体のせいだわ、と翠は思う。
 ここにこの物語のポイントがある。
 このあと、それぞれの少女は本格的に、相手を貶めるためという言い訳をしながら、町中で痴女行為を繰り広げる。十数本の男性器に囲まれて一斉射精される、二次元ドリームノベルスのお家芸のような場面が展開される。ナナコの身体にある翠の精神は、この行為の乍中にあって、なおも「これはナナコの身体のせい」と自分に言い聞かせるのだが、それが真実でないことは、読者はもちろんのこと、翠自身も気付いている。実際、このくだりの最中に、翠とナナコの精神はふたたび入れ替わり、つまり元通りになるのだが、淫魔であるナナコはもちろんのこと、ホーリーハートである翠もまた、悦楽に溺れ、悦びながら、知らない男たちの無数のぱぱぼとるに蹂躙され続ける。
 すなわち、翠もナナコに負けず劣らず、スケベだったのである。
 この物語が、この設定を用いて表現したかったのは、この部分だろうと思う。黎明期でしかあり得なかった、女の子が主人公で、メインキャラクター以外とも性行為をするという内容であったからこそ活写することができた主題だと言える。
 それは単にこの1冊の小説の主題ではない。二次元ドリーム文庫というレーベルそのものの主題だし、さらに大きく言うならば、この世界の主題でもある。
 つまり、『女の子もエロい』ということである。
 主題と言ってもいいし、いっそ憲章として高く掲げてもいい。
 二次元ドリーム文庫は、それが絶対的な約束として保障されているのだ。
『女の子もエロい』
『女の子は男性器および精液が大好き』
『女の子は常にエッチなことをするきっかけを求めている』
 この3つを三憲章として、二次元ドリーム文庫は成立している。いまどきの言葉で言うなら、プロンプトということになる。そういうルールですべての物語は生成されている。やがて主人公は男が主になって、そこから新しい憲章が追加されてゆくが、元始の二次元ドリーム文庫はそうだったし、つまり真核の部分はそこだということになる。「聖魔ちぇんじ!」はわれわれにそのことを教えてくれる。
 ヒロインが無数の男に囲まれて精液まみれになる、中盤から終盤にかけての場面は、いわゆるヌキどころとしてはピークということになるが、実はこの流れの中に、祐一は一切登場しない。ここがすごい。さすがは黎明期。しかし、じゃあ祐一は序盤で、翠の身体のナナコとセックスをした以外は出番がないのかと言えば、さすがにそんなことはない。
 最終盤、男たちの集団との行為を終え(ちなみにナナコの魔法により、男たちにとってこの出来事はすべて夢の中のことと思うようにされている。とても便利である)、 ナナコと翠は語り合う。

「あーあ。もうちょっとイキたかったんだけどなあ……」
 翠も同じ気持ちであたりを見まわす。まだ足りない。もっとイキたい。そんなとき、ナナコがぼそっと呟いた。
「ユウイチとしようかな……」
 黒衣の淫魔が顔を真っ赤にする。
「ね、ねえナナコ。祐一くんのおちん〇んって……どんなのかしら?」
 大好きな祐一のペニスに興味を持った翠が質問すると、ナナコが誇らしげに答えた。
「えへへ、すっごくおっきいの! フェラチオしてるとね、おくちの中がいっぱいになって、舐めるのがやっとで……」
 話を聞くや祐一のペニスをしゃぶりたくてたまらなくなった、はしたない翠。ぽかんと開いた口から涎を垂らす。
「あはは! ミドリったら、ヤっらしー!」
「そ、それは……でも……美味しそうなんだもの」
 いつのまにかエッチが大好きになってしまった自分がちょっと恥ずかしい。

 そしてすっかり仲良くなったふたりはともに祐一のもとへと向かい、祐一は戸惑いつつも、スケベな女の子ふたりから誘惑され、巨根を弄ばれるめくるめく日々が始まるのだった、というのがこの物語のラストで、主人公(ではないが)の少年が巨根の絶倫というのは、このあとの二次元ドリーム文庫の流れからすれば順当だと言えるが、驚くべきは、翠と祐一は作品内でとうとういちどもセックスをしない、という点である。翠の身体のナナコとはしているが、精神的な意味で翠とはセックスをしない。最後に「それ以降ふたりとセックスまみれの日々である」みたいな記述はあるが、描かれないのだ。これものちの時代では考えられない。そもそもヒロインの(精神的な)初めての相手が、深夜の公園にいた汚いおっさんという時点で、大ブーイングだろうと思う。
 そう考えれば、「昔は大らかだった」という、ありきたりな、しかしたしかにそうである結論が導き出される。この手のジャンルの創作物というのは、厳正さが極まった結果、がんじがらめとなり、身動きが取れなくなって潰えたのではないかという印象もあり、これから刊行順に読み進めることで、そのあたりのことも探っていければと思う。
 さすがは通し番号一桁台なだけあり、きちんとその時代性を表していて、やはり神楽陽子を軸にして二次元ドリーム文庫の歴史を振り返るのは正しいな、ということを実感した、いい1冊目だった。