2025/11/15

「スク水メイドぱらだいす」を読んで


 7冊目。2007年7月刊行。通し番号は73。
 これまで4、5ヶ月おきに新作を発表していた神楽陽子だったが、ここで前作から10ヶ月ほどの期間が空いた。もっともこの間、沈黙していたわけでは決してなく、ノベルスのほうで精力的に作品を出しているので、単に出版社の事情だろう。
 あらすじはこちら。

 スクール水着にエプロン姿のメイド!? 突如悠が運ばれた屋敷には、ツンデレ幼馴染み、元気いっぱい同級生、金髪巨乳留学生に許婚と名乗るクールな女性までが現れて大混乱! 悠へのご奉仕を巡って誘惑だらけの夏休みハーレムが始まる!!

 7作目にして本当に王道の、ザ・ライトノベル系エロ小説と言っていい設定である。平凡な少年が実は大富豪の跡取りで、連れてこられたお屋敷には主人公への奉仕を競い合う美少女メイドたちがいる。もしもライトノベル系エロ小説創作のカルチャースクールがあれば、生徒の半数以上がこの設定で書くのではないか、というくらい安全牌の、間違いのない設定である。
 こんなにも安易な、使い古された設定でいいのか。
 そんな小説が果たしておもしろいのか。
 おもしろいのである。なんの問題もないのである。
 前作「ウエイトレスパニック」で、絶対に経営収支が成り立ってないし、衛生面や、女の子たちの勤務体系にも大いに問題がありそうな点が気になって、エロに安らかに集中できない、ということを書いた。こっちはエロに集中したいんだから、凝った設定にする必要はなくて、私立学園で好きな制服を着せて野放図にエロいことしていればそれでいいんだよ、と。それを書いていたとき、次作のこれのことを意識していたわけではないが、期せずして今作はその意見に対するアンサーになっている。私立学園でこそないが、大富豪のお屋敷なので、さらに純度が高いとも言える。女の子たちはみな、スクール水着にエプロン、頭にはホワイトブリムを乗せ、そしてロンググローブとタイツという恰好で、主人公への奉仕を行なう。なんだその恰好は、と思われるかもしれないが、別にこの格好で街に出るわけではない。あくまで職場での作業服というスタンスであり、であれば誰も文句を言うことはできない。なるほど大富豪のお屋敷ではそんなこともあるだろうと、納得するほかない。この説得力の高さは、作者のご都合主義などではない。それはわれわれ読者にとっての都合だ。この豪腕による強制的とも言える納得がなければ、われわれの気はすぐに散ってしまう。クォーク同士を結びつけ、陽子や中性子を作り、それらをさらに結びつけて原子核を形作るがごとく、強い力によってのみ、われわれはエロの世界に浸ることが可能となる。
 併せてこの小説では、そのさらに先、主人公が複数の女の子と関係を持つことについても、なぜならここは大富豪のお屋敷なのだからして、という最強理論によって肯定される。
 お屋敷内のプールにて、メイドたちの濡れた水着姿を見て、サマーベッドに寝転ぶ主人公の股間は隆起し、それを見つけたメイドたちは下半身に群がり、すかさず主人公の水着を脱がそうとする。それを目にし、メイドの中で唯一庶民の子であるツンデレ幼馴染は戸惑う。

「ああ、あんたたち、そっ、そんな……真昼間から、こんなところで」
 彼女の言わんとすることはよくわかる。しかし他のメイドたちは、質問の意味がわからないといった様子で首を傾げた。
「他には誰モいないから大丈夫デスよ?」
「そっ、それだけじゃなくて! みんな……さ、三人も一緒にって……」
 代表して葵が答える。
「だから、昨夜も相談して決めたじゃない。悠クンとエッチするのは自由って」
「それは……そう、だけど」
(中略)
 どうやらメイドがひとりずつ相手をする、というわけではなく、昨夜のように複数が同時に身を尽くすのが上流階級では当たり前のようだ。

 一般的には考えられないことだけど、ここではなんの問題もない。なぜか。それは上流階級だからです。二次元ドリーム文庫を読んでいる読者は、誰ひとりとして上流階級ではないから、知る由もないでしょうが、いいですか、心して聞いてくださいね、上流階級では、これが当たり前なのです。だからなにも憂うことはないし、なにも不自然ではないのです。あなたは、これを読んでいるときだけは、上流階級の、巨根の、そのうえ何度でも連発で射精することのできる、無敵の跡取り息子なのですから、ただひたすらその境遇を堪能すればそれでよいのです。よかったですね。本当によかったですね。
 そうなのだ。この小説は、そういう点で、なんだか本当によかった。肯定感がとにかく強いのだ。女の子はみんな自分のことが好きだし、張り合うこともしないし、勃起したら喜んでくれるし、射精したら美味しく飲んでくれる。男にとってこれ以上のしあわせって別にないよな、と思う。そういう意味で、これぞレーベル名である「二次元ドリーム」を、高い次元で描き出した一冊であると思う。これを成立させているのは、先ほども述べたように強い力である。この強い力は、エロ小説だけではなく、エロ漫画にAVなど、あらゆるエロ創作物に通底するものであり、湯川秀樹はたぶん見つけていないそれを、僕が発見したので、どうしたってそのうちノーベル賞を戴くことになると思う。よし、晩餐会で乱交だ! ただしジジイとババアばっかりだけどな!

2025/11/03

「ウェイトレスパニック」を読んで


 6冊目。2006年9月刊行。通し番号51。
 あらすじはこちら。

 いきなり喫茶店を任されてしまった誠は、四人のウェイトレスと開店準備を進めることに。勝気な元カノ、聡明な優等生、元気なロリっ娘、清楚な大和撫子……エプロンドレスの美少女たちによる秘密の接客サービスを、心ゆくまで堪能していく!!

 はっきり言って今作は、神楽陽子作品の中でだいぶ浮いている。あらすじを読んでもらえれば判るが、びっくりするくらい設定が薄い。これが本当に、架空の中世国家の戴冠式が、新女王と入れ替わった瓜二つの性奴隷のせいでめちゃくちゃになる物語と、同じ作家による同じレーベルの作品なのかと思う。
 しかも作者の持ち味である衣装に関しても、神楽陽子版ウェイトレスはどのような恰好なのかと言えば、アンナミラーズをもう少しだけ煽情的にした程度のエプロンドレスで、スクール水着やレオタード、あるいはバニーガールのような、肌に張りつくような素材は、今作に一切登場しない。
 そういう意味で、もはや浮いているというか、あまりにもエロ小説のただの上澄みすぎて、印象に残らないのだった。この著者の大抵の作品について、こんな話だったなあ、あそこがよかったなあ、みたいな記憶があるものだが、これについてはそういうものがまるでなかった。だから逆に新鮮に、初読のような気持ちで今回読んだ。
 読んだ結果、作品自体に対する薄さ、上澄み感について、特にイメージが覆される部分というのは特になかった。それでは設定がゴテゴテしていない分、気楽にさくっと読めるのかと言うと、実はそんなこともない。
 主人公は、都会で繁盛しているレストランの店主のひとり息子で、彼は両親と離れて、もともと両親が地元で営んでいた、いまは閉めてしまっている小さな喫茶店の店舗かつ実家で暮しているのだが、このたびそこを2号店としてオープンさせる運びとなり、ウェイトレスとして4人の美少女が押し掛けてくるのである。しかしその中に、飲食店の経営に通じている者はひとりもいない。本当に2号店のオープニングスタッフとして雇われた、単なる美少女たちなのだ。
 ところでエロ小説のジャンルと言うか、展開の種類のひとつに「孕ませ」というのがあって、僕はこれが苦手である。女性が妊娠することはもちろんとても喜ばしいことだが、自分の分身である主人公が、好き放題に射精することが許された、夢のように愉しいはずのエロ小説において、ひとたび妊娠が発生してしまうと、そこから先はもう好き放題じゃなくなって、その相手と入籍し、家庭を営まなければならないという責任が出てくる。それはすなわち現実である。エロ小説が見せてくれている夢から、途端に目が覚めてしまうのである。
 この作品は、もちろん「孕ませ」でこそないのだが、読んでいてそれと同じような焦燥を覚える。飲食店が、料理が得意な主人公(普通の大学生という設定で、調理師学校などには通っていないようである)と、かわいさだけが取り柄の美少女4人で、回るはずがないだろ、という現実ばかりが気になってしまい、夢が見られないのである。
 作品の大部分は、オープン準備期間の、主人公と女の子たちの出会いからハーレム形成まで(この間わずか数日)なのだが、物語のラストにおいて、店は無事にオープンする。

「いらっしゃいませ、アップルハートへようこそ!」
 アップルハート二号店は連日、大勢の客で賑わった。待望の二号店は一号店より規模は小さいながらも、ウェイトレスの可愛い制服と上品な格調、そして店長の手料理が好評を博し、確実に成長しつつある。
 しかし、誰も知らない店員だけの秘密があった。平日のランチタイムサービスを終えてようやく、カウンターの裏で一息つく誠だが。
 まだちらほらと客がいるにもかかわらず、ウェイトレスのひとりが頬を赤らめ、彼の逸物を夢中で頬張っている。
「んちゅぅ……誠、どぉ? んふ……きもち、ひい?」
「ああ、すげえ……いいぞ」

 一号店より規模が小さいながらも、連日大勢の客で賑わう店が、5人で回るはずがないのに、なんか回ってて、そして客の見えないカウンターの裏では、店長兼調理担当の主人公のぱぱぼとるを、ウェイトレスのひとりがフェラチオしているのである。
 なんかあまりにも現実離れしていて、じゃあスクール水着の上にトップスだけセーラーを羽織るという制服の学園に現実感があるのか、逆になんでそっちは許容できるんだよ、と問い詰められたら、あまり論理的な弁明はできないのだけど、しかしどうしてもエロ以外の部分に意識が流れてしまい、集中できないのだった。
 さらに言えば経営的な面以外でも、性行為は基本的に店舗スペースで繰り広げられるのだが、この際、客が使用するテーブルやソファーに、愛液から精液、挙句の果てには尿までもが撒き散らされ、ましてやそれを少女たちは当然ウェイトレスの制服のまま執り行なうので、回転ずし店の醤油ペロペロどころではない不衛生さも大いに気に掛かるのだった。

 「よし……いいぞ。はあ、こっち向いて」
 快楽電流がショートし、輸精管が再び決壊した。
 巨砲を宙にのたうたせ、白弾を撒き散らす。
 ビュルビュルビュル! ビュルビュルビュルビュル!
 明日からは客を迎える美貌をたっぷりと汚しておく。誠は口を広げて舌を垂らす彼女らの額や頬、鼻に亀頭を接触させて精を吐いた。締まりなく開いた唇にも注いで、悶える舌を白濁させる。
 四人のウェイトレスが牝の本性を剝き出しにして、恍惚の笑みを浮かべた。
「あはあ! 誠の、誠のスペルマぁ」
「熱ぅい……はあ、誠クぅン」
「ひあん、ミユキ、ベトベトになっひゃうぅ」
「あぁ、素敵ですわ……こんなに、たくさん……あはぁあ」
 射精は顔を汚すだけでは止まらず、ずらりと並ぶ乳塊にも、乳首から滴るくらいの牡汁をぶちまけた。
 ビュクビュクビュクッドプドプドプドプドプ!
 エプロンドレスの鮮やかだった林檎色が黒ずんで、絹地はねとつく。ドレスの胸元は肌との境界線がわからなくなるほど白濁にまみれ、奈緒や真理亜が手櫛を入れると、長い髪が蜘蛛の巣のように絡まって離れない。
 射精が終わる頃には、バケツでもひっくり返したかのように凄惨な状況だった。どこもかしこも精液だらけで、生臭い性臭と湯気がもうもうと辺りに蔓延する。
 
 この場面が、いつのことだと思いますか。
 正解は、オープン日の前夜なんですよ。開店前日に、主人公である店長はウェイトレスと店内を、精液まみれにするんですよ。完全に頭おかしいんですよ。
 エロ小説は、どこまでもシビアな現実から乖離して、夢のような世界を味わわせてくれる装置だが、しかしあまりにも現実から離れすぎてしまっていると、物語の中に没入するのが難しいし、その一方で今作のように、店舗運営を任されるという、半端に現実的な状況を与えらえると、「そんなんじゃ成立しねーよ」という否定が生じてしまう。エロ小説はこの塩梅がとても大事で、それの最適解、もとい安全牌こそが、学園ものということなのかな、と思う。性欲によってのみ立脚される、責任のない気楽な学生の物語が、結局いちばん心地いいってことなんだろう。なのでそれだけやってればいいよ、と言われると、やはりクリエイターとして抵抗したい気持ちというのがあり、それで神楽陽子はこれを書いたのかもしれない。失敗しているが。
 

2025/10/19

「お姉さんが診てアゲル」を読んで


 5冊目。刊行は2006年5月。レーベルの通し番号は42。相変わらず順調な刊行ペースであり、この時点での5冊到達はもちろんのこと、4冊の著者も他にいない。ひとりずんずん先を行く、われらが神楽陽子である。
 今作のあらすじはこちら。

 虚弱体質の少年・悟が入院したE病棟。そこで待ち受けていたのは、レオタードを着た四人のお姉さんナースだった! 年上の美女たちに施される、献身的なお世話の域を超えた大胆な奉仕に、少年の心と身体は肉欲の病に冒されていく!!

 前作の学園ものに続き、こちらは病院、すなわちナースものである。もっともナースものは、AVでは定番だし、おっさん向け官能小説でもよく見られるが、ラノベ系エロ小説界隈ではわりと珍しかったりする。二次元ドリーム文庫全体の刊行作品をざっとチェックしても、ナースものというのはこれの他にほぼ存在しないと言っていい。これはなぜかと考えて、主人公が学生である場合が多いラノベ系エロ小説で、病院を舞台に、ナースたちに奉仕される物語を描こうとすると、登場する女の子がみんな主人公に対して年上になってしまうからではないかと思った。
 この作品がまさにそうである。主人公である虚弱体質の少年・悟の年齢は明言されていないが、ナースのうちのひとりは弟を溺愛する主人公の実の姉・エリカであり、年齢は22歳だという。女の子は他に、エリカの親友である引っ込み思案の真奈美、ふたりの先輩で奔放な性格の綾乃(25歳という記述がある)、その同輩でしっかり者の唯がいる。主人公の年齢はどんなに高く見積もっても16か17といったところで、相手となる女の子全員が5歳以上も年上であるという、とても珍しい編成になっている。これもひとえに草創期であるがゆえの産物だろう。後世の作品であれば、主人公の入院を心配して病院に駆けつける同級生を出すか、あるいは年齢的には年上であっても、4人のうちのひとりはとても幼い外見にしなければならなかったろうと思う。
 あらすじに戻ると、お姉さんナースたちはレオタードを着ているという。これについて、あらすじでは説明しきれない理由付けを補足しなければならない。お姉さんナースたちは、ハイレグかつ生地のきわめて薄いレオタードの上に、ナース服のトップスを羽織る(もちろんナースキャップも被る)という恰好をしているのだが、なぜこんなことになっているのか、前作のスク水セーラーに引き続き、そういう制服の私立病院なのか、と言えばそういうことではない。悟は大病院を経営する天才医師の息子であり、その父である天才医師の研究のため(悟自身はこの入院が実験であり自分がモルモットにされているということは知らない)、他に人のいないE病棟に閉じ込められ、もちろん他の病棟ではそんな恰好をするはずがないナースたちに、それは手厚くお世話をされるという、これはそういうお話なのだ。
 それでは父の研究テーマはなにかと言えば、リビドーの高まりによって人は生命力を高めるという仮説のもと、性的興奮がどれほど健康に作用するか、というもので、そんな高尚な理念による実証実験のため、父は虚弱体質の息子を実験台にするし、若いナースたちは、どうしたって下半身がハイレグかつ生地のきわめて薄いレオタードのみという姿で、主人公の看護をする必要が出てくる。きちんと理屈があるのだ。AVによくある、ただセーラー服がシースルーになってる学園とはぜんぜん違うのだ。「そんなナースいねえよ(笑)」などと嘲った自分たちを恥じてほしい。
 物語は、なにしろ悟を興奮させるのが目的なので、身の回りの世話をしながら、ナースたちは次々に悟を誘惑してゆく。今作でもまた、神楽陽子の衣装に対するこだわりがよかった。ナースたちのレオタードももちろんだが、主人公の少年が纏う入院着である。

 学生服は脱ぎ、代わりに緑色のローブを一枚羽織っていた。恥ずかしいことに、入院の間は衛生面の関係でパンツを穿いてはいけないという。
 実際に下着の着用を禁じられているのは被験者の悟のみだった。ひんやりとした外気が真下から股間を煽り、ゾクゾクと寒気が込み上げる。
(しっかり留めとかなくちゃ)
 少年は逸物が食み出すことのないよう、腰紐を固く結んだ。しかし中央にくるあわせはどうしようもなく、歩くときは歩幅を狭めるしかない。
 入院患者が使用する正規の衣は、あわせが左脇にくる。すべては猥褻な実験のため、宗一郎に仕組まれたことだった。

 悟のローブだけは、他の入院患者と違って、あわせが中央に来るのだという。だから腰紐を固く結んでも、どうしてもセンター部分が開けて、ノーパンということもありそこから容易に逸物がはみ出てしまう。
 それはエロいことだな、と直感で思う。ぱぱぼとるをぶぉろろぉぉんすることについては一家言あるので、いい衣装だな、とまず思った。しかし実際に作ろうと思ったわけではないが、少し考えて、あわせが中央ってどういうことだろう、とも思った。正規の入院患者が着るような、左脇にあわせが来る仕組みとまではいかなくても、あわせである以上、どうしたって上前と下前は存在し、そのふたつが重なる打ち合いは発生するものではないか。それがこの場合、完全に中央だということなのか。だとすればそれは、悟のヌード寸法ちょうどの胴回りになるよう設計されていて、それを上前下前それぞれの端に縫い付けられた腰紐で繋ぐという仕組みなのだろうか。もしそうだとしたら、それははみ出るよ。しかも悟の逸物と来たら、それはもうすさまじい巨根で、勃起時の全長は『二十センチもあろうか。』とのことである。打ち合いの一切ないあわせから、20cmの巨根がはみ出ている。それを、下半身がハイレグかつ生地のきわめて薄いレオタードのナースによって世話される。
 これはそういう世界の話である。
 さらには物語の途中で、マッドサイエンティストの父により、悟は強力な媚薬を投与されたということが判明する。

「コレは媚薬よ。それもかなり強力なもの。依存症だってあるわ」
「え!? い、院長先生は、体調を整えるお薬だって」
「あの院長の言葉を真に受けちゃダメよ。はあ……面倒なことになったわね」
 この種の媚薬は性欲を鼓舞するだけでなく、生産される精子の量を爆発的に増やし、精巣に障害を与えることもある。投薬を中止しても向こう一週間は鎮まらない。
 その七日間、頻繁に射精させて精巣を飽和させないことが唯一の対策だった。しかし真奈美ひとりに任せるにはあまりに酷だ。それほどの回数をこなさねばならない。

 なぜナースたちの下半身が、ハイレグかつ生地のきわめて薄いレオタードなのか。なぜ4人で寄ってたかって主人公に性的な奉仕をするのか。これですべての説明はついた。ただの実験でもよかったのに、そこにナースとしての人命救助の使命まで加わったのである。毎度のことながら、神楽陽子はスケベの理由付けにおいて、とても律義である。
 ただしこの徹底は、エロ小説において、実は必須というわけではない。『女の子もエロい』という憲章を盾に、主人公が次々にエロい目に遭うことについて、なんの言い訳もしない小説もある。しかしそれは、言わば食材をそのまま腹に詰めているようなもので、栄養成分的にはたしかに一緒なのだけど、しかし格別の悦びを得ようと思ったら、やはりおいしく料理されているほうが好もしいだろう。
 作者である神楽陽子によってきちんと調理が施され、一切の憂いもなく、あとはやることをやるだけになった物語は、それではここから目もくらむような高みへと至るのかと言えば、しかし実はそんなこともないのだった。これが創作の難しいところだろう。
 4人のナースのうちのひとりは実の姉だということは書いた。これがあまりよくなかった気がする。実の姉なので、セックスをすることができない。しかしこの姉は重度のブラコンなので、他の3人が悟に性的奉仕をするさまを眺めて、忸怩たる思いを抱く。その結果、どこに帰結するかと言えば、それは当然アナルセックスということになる。
 アナルセックス。
 エロ小説、二次元ドリーム文庫、神楽陽子について語っていく以上、どうしたって避けられないテーマである。それについて、ここまでの刊行作ではどうだったかと言えば、『聖魔ちぇんじ!』と『なりきりプリンセス』は、主人公であるヒロインの穴という穴が犯される、という二次元ドリームノベルスの世界観で描かれていたため、当然それはあった。しかしこれは物語の性質が違うのでノーカンだ。3作目『ラブパラ』、4作目『ハートフルパニック』では、女の子の肛門に指を突っ込んで絶頂させるという描写はあったものの、本式のアナルセックスはなかった。
 つまり主人公の男が、意識的に女の子の肛門にぱぱぼとるを挿入したのは、今作が初だということになる。それに対して僕は、開けなくていい門を開けてしまったな、と思う。肛門だけに。指くらいでよかった。
 アナルセックスって、別にしたい人はすればいいと思うし、二次元ドリームノベルスの、穴という穴犯され系ストーリーであれば、それはアナルにも挿れるべきだろ、とは思うけど、この物語のように、ただでさえひとりの主人公に対して4人の女の子がいるという設定なのに、そこへ女の子の穴として、ヴァギナだけでなく肛門まで出てくると、いよいよバランスが悪くなってしまうと思う。
 物語では、姉弟のアナルセックスを見た他の3人も感化され、次々に主人公に肛門への挿入を願い(肛門に巨根ってそんなにスムーズに入るんだ、というくらい次々に入る)、挙句の果てには結局そのあと実の姉とヴァギナでの性交も行なって、つまり1本しかないぱぱぼとるに対し、穴が8個も現出したことになるのだった。
 なんかその感じに、ラストシーンはすっかり冷めてしまって、物語全体としていまいちな印象を持ってしまった。4人の肛門を次々に行き来する、という行為に対し、普通に衛生上の嫌悪感を抱いたというのもある。よりにもよってナースものなのに。
 まあ、神楽陽子作品だって、すべてがすべて、諸手を挙げて大絶賛ではないということだ。もちろん設定などは秀逸だと思うし。ちなみにだが、専門家によるファルマンによると、タイトルの「診る」という表記は、医師においてしか使用できないので、ナースが使うのは誤用だそうだ。読んでるエロ小説に関し、妻にそんなこと言われると、なんか萎えるじゃんよ……。

2025/10/05

「ハートフルパニック どきどき臨海学園」を読んで


 4冊目。発刊は2006年1月。レーベルの通し番号は35。二次元ドリーム文庫としては6冊ぶりの神楽陽子作品ということになり、比率が高い。ちなみに集計したところ、この時点で二次元ドリーム文庫で4冊を上梓しているのは神楽陽子のみである。神楽陽子こそが二次元ドリーム文庫の礎を築いた存在であるという僕の主張も、あながち根拠がないわけではないのだ。
 あらすじがこちら。

 勝気な少女・澪とともに、清宮家の娘・姫子の世話役として臨海学園に入学した秀平。女生徒たちが水着で過ごす楽園で、彼は委員長や令嬢に大胆に迫られ、性の快感を知ってしまう。やがて姫子と澪も加わって、魅惑のスク水ハーレムライフに溺れていく!

 前作「ラブパラ」も、変身前の少女たちは主人公と同じ学校に通う女生徒であり、校内での性行為のシーンもないではなかったが、しかし学園ものかと問われれば、首肯しづらいものがあった。その点、こちらは真正面からの学園ものである。それも全寮制。結局、全寮制の私学というのが、この世のエロの舞台の中で、いちばん心地いいと思う。世の中にはいろんなエロの設定があるけれど、さんざん旅行をした挙句、帰宅して「やっぱりわが家がいちばん」となるように、「やっぱり全寮制の私学がいちばん」だとしみじみと思う。
 私学のいいところはなんと言っても、校則の名の下に、設定がやりたい放題だという点だ。
 今作の場合で言うと、あらすじにもあるように、学園の生徒は皆、スクール水着で生活を送っている。なぜならそれが制服なのである。もっとも、さすがにスクール水着1枚のみということはない。上には半袖のセーラーを羽織っている。ただしイラストを見るとその丈はだいぶ短く、乳房をぎりぎり覆う程度までしかない。腰から下は常にスクール水着がさらけ出されている。この学園の生徒はそういう恰好で授業を受け、食事をし、休み時間を過す。ちなみに男子も同じくセーラーで、下はハーフパンツだそうだ。
 なんでそんな制服なのかと言えば、タイトルにもあるように、学園が臨海にあるからだ。海ですぐに泳げるように水着だし、そして海だから水兵でセーラーなのだ。なるほど理屈は通っている。……通って、いる? いる……、よな。うん、通ってるよ。この環境でブレザーにスカートとかのほうが逆に変だよ。冬はどうなのかとか知らないよ。夏のお話だよ。
 ちなみに、今作は神楽陽子による二次元ドリーム文庫初の学園ものであると先ほど述べたが、それと同時に初のスク水ものでもある。スク水、すなわちスクール水着は、神楽陽子を語る上でとても重要なキーワードだ。前作「ラブパラ」のレオタード的な魔法少女の衣装にも既にその片鱗はあったが、スクール水着をはじめとしたゴムのようなハイテンションニットは、性癖なのだろう、神楽陽子作品に頻出する。ある種の持ち芸と言ってもいい。これはその記念すべき1冊目であり、同時に真骨頂だ。ここからさまざまなスク水アレンジが繰り広げられるが、スク水にセーラーを合わせたのはこの作品のみである。
 もっとも僕自身の嗜好のことを言えば、実はスクール水着はそこまで響くわけではない。プールや水泳というシチュエーションはもちろん好物だが、そんなときの女の子の水着はスク水ではなくビキニのほうが断然いい。それなのにこれほど傾倒しているという点こそ、神楽陽子作品の地力の証明となっている。
 前置きがだいぶ長くなった。本編の内容についても語らねばならない。もっともストーリーはあってないようなもので、あらすじの文面が全てである。秀平は性の快楽を知ってしまい、スク水ハーレムライフに溺れるのである。秀平には水嫌いというトラウマがあり、それは実は幼なじみだった澪との思い出に起因するもので……、などという筋立ては一応あるのだが、あまり気にする必要はない。性行為をすることの意味であるとか、憂いであるとか、そんなことを気にかける必要などないのだ。女の子たちはスクール水着にセーラーを羽織っただけの恰好で秀平に迫るのだ。であれば秀平はそれに応えるだけである。ちなみに大の水嫌いだった秀平は、話の中盤であっさりとトラウマを克服し、そこからはむしろ逆で、水気に対して異様な性的興奮を覚えるようになる。このとき効果的になってくるのが少女たちの濡れたスクール水着で、水分を多く湛えたそれで性行為をすることで、秀平の獣性はいや増す。つまりスクール水着はただの外見狙いのフェティシズムではなく、効果的に性感と結びついているのだ。やっぱりここには理屈が通って……いる、うん、いるんだと思う。
 そうなのだ、神楽陽子の作品では、いつだって女の子たちの衣装がきちんと有機的に作用している。ただエロい、ただ過激な恰好をさせているわけではない。たとえば4人いる女の子のひとりに、財閥の令嬢がいる。とても育ちがいい少女である。この子はとても上品で清楚なので、そうなってくるとスクール水着も当然、白だということになる。一方で白いスクール水着はすぐに透けてしまうという特徴があり、結果的に深窓の令嬢は他のクラスメイトよりもはるかに容易く、スクール水着で覆っている下半身を透けさせて晒すこととなる。でもそれは結果論に過ぎず、やっぱりこの子が着るスク水は白だというのが道理である。
 実際、衣装に関しては並々ならぬ熱意があるようで、描写にも力が入っている。かつて読んだ際にそこまでの印象はなかったが、今回の読み返しで、改めてそのことに気付いた。以下のような記述がある。

 尻とは打って変わって華奢な肩が強張る。下向いた豊乳が、セーラーを後ろ身頃まで手前に引くのか、背の縦線が薄ピンクの地にはっきりと浮かぶ。半袖短裾では巨乳を包むには足りないが、二の腕に掛かる水着の肩紐が、釣鐘肉を下溝から掬い上げて裾の裏に押し込んだ。それでも過剰な蠱惑感までは隠しきれない。

 衣装と、それを纏う女の子の肉体とを、こんなにも絡めた描写は珍しいと思う。ちなみにこのとき少女は、ビーチサイドに立てたパラソルの支柱に掴まり、主人公に尻を向けて挿入をせがんでいる。そのため豊乳は下を向き、セーラーが引っ張られ、背中心の縫い目が際立つのである。セーラーは少女の巨乳に対して窮屈だが、既にずらされているスク水の肩紐が釣鐘肉を持ち上げて、裾の裏に押し込んでいるという。……裾の裏に押し込む? ん? イメージが湧かない。湧かないが、本来ならそれで過剰な蠱惑感が和らげられるはずが、この少女の場合はそれが隠しきれていないという。なんかすごい。もうなんかすごいとしか言いようがない。そして「後ろ身頃」とか、言葉がもはや縫製用語で、ドキッとする。
 解る、解るよ。ただの裸ではない、生地があるからこそのエロティシズム。服作り、水着作りって、要するにそういうことだ。なるほど、この思想が根底にあるから、神楽陽子作品はこんなにも心に刺さるのかもしれない。神楽陽子作品の衣装は、衣装が、ただの体を覆う布ではなく、起伏のある肉体に対し、その形を生かすための立体裁断がなされているように思う。その結果、平面的ではないダイナミックな動きが実現している。だから神楽陽子の描くセックス描写は鮮やかでおもしろい。二次元ドリーム文庫の礎を築いた物語は、実は三次元発想で生み出されていたのであった。
 

2025/09/13

「ラヴパラ ラヴハートパラダイス」を読んで

 
 3冊目。刊行は2005年10月で、レーベルの通し番号は29。前作「なりきりプリンセス」から3ヶ月しか間が空いておらず、それでいて通し番号は7も進んでいるわけで、当時の二次元ドリーム文庫のイケイケさがここからも伝わってくる。実際はこのあとさらに隆盛を極める時期もあるのだが、実はつい先ごろ二次元ドリーム文庫に、2023年11月以来、ほとんど2年ぶりの新作が刊行されるという出来事があったので、やけに感慨深く思ったのだった。
 今回もはじめにあらすじを引用する。

 ボクの家に三人の美少女戦士・ラヴハートがやってきた!? 突如始まった夢のような同居生活。彼女たちのきわどいコスチュームと豊満な肢体に理性を刺激され、さらには連日連夜淫らな遊戯を迫られる少年。やがて家中は愛欲のパラダイスに染まっていく!

 前作に較べ、とても簡潔な設定である。主人公の少年・衛の家に、彼を慕う美少女戦士の3人が押し掛け、ひたすら愛欲の日々を送る。以上である。ちなみに衛の両親はお約束の海外赴任によって家におらず、少年はひとり暮しをしている。
 なんて安易でご都合主義のエロ小説か、と思われるかもしれないが、一連の流れで考えたとき、この設定にこそ神楽陽子の表現者としての気概を感じられると思う。
 前回の「なりきりプリンセス」の感想文で、『女の子が主人公で、無数の男を相手にする、というスタイルの作品は、神楽陽子に関してはここまでで、このあとは基本的にひとりの男を相手に展開する物語となる』と書いた。それはつまり二次元ドリーム文庫が、二次元ドリームノベルスと袂を分ったことを意味するが、元来がノベルスの作者であった神楽陽子は、そのことに対して特別な思いがあったのだろうと推察される。それゆえに、その記念碑的な意図によってこの作品は紡がれたに違いない。
 着目すべきは、ヒロインとなる3人の女の子たちは、みなラヴハートという美少女戦士なのだが、その戦いはこの物語の開始時点で終わっている、という点だ。その顛末は、冒頭の数行で説明されている。

 杏樹はラヴハート・アンジェとなって、己の使命を知った。そして同じく目覚めた仲間と力を合わせ、魔の眷属たちを封印することに成功する。謎の美少女戦士が噂になることもあったが、あくまで噂、人知れず闘いは終結した。
 いま、杏樹は「普通の女の子」として平和な日々を送っている。

 この数行こそが、二次元ドリームノベルスからの独立のモニュメントであり、いままさに目の前の大海原に繰り出すのだという、若き二次元ドリーム文庫の声高な布告であろうと思う。
 美少女3人によるラヴハートのコスチュームは、それぞれあられもない部分が欠如した、露出過多の全身タイツで、しかもそれは表面積が小さい一方で、防具としての役割のためか、きわめて硬い繊維でできており、それはさながら亀甲縛りのように、動くたびに少女たちの身体に刺激を与えるという。つまりこれは、どこまでも二次元ドリームノベルスの文脈で考えられた衣装であり、ラヴハートたちはこれを着て魔の眷属と戦っていた際、それはもう無数の魔物や、あるいは触手によって、穴という穴を犯されたに違いないのだった(ただしのちの衛とのセックス描写によると、全員処女だった。説明はなかったが、美少女戦士は処女膜もまた再生するのだと理解した)。
 しかしそれは一切描かれない。魔の眷属たちは既に封印されている。なぜか。それはこの物語が、二次元ドリーム文庫というレーベルで発売されたからだ。二次元ドリーム文庫では、無数の魔物や触手によって、エロエロコスチュームの少女が穴という穴を犯されるシーンは、描かれない。その代わり戦いを終えた少女たちは、思いを寄せる少年のもとへと押し掛け、そこで少年を中心にしたハーレムストーリーが展開される。これからはもうそういう時代なのだということが、とても明確に示唆されているのだった。
 かつ、この美少女戦士という設定は、三憲章のひとつ、『女の子は常にエッチなことをするきっかけを求めている』にも作用し、少女たちはそれぞれ衛と同じ学園に通っており、そして好意を持っているが、しかしそこから先へ踏み出すきっかけが持てず、少年との関係を深められずにいたわけだが、魔の眷属を封印したあと、平和になった世界で、もう不要となった美少女戦士という設定こそが、ともすれば魔の眷属よりも手強い、大好きな男の子とエッチなことをしたいけど勇気が出せないという少女たちの葛藤を、軽々と封印してくれるのだ。すなわち、変身後の美少女戦士としてなら、少年とスケベなことをし放題である、と。
 これは第1作「聖魔ちぇんじ!」の翠と一緒で、神楽陽子はやはりそこが真摯というか、元来スケベな女の子が、しかしスケベさを顕出しづらい現代社会で、いかに「いいんだよ」というきっかけを得るかという、その説明が丁寧だし、なにより優しい。そう、優しさなのだ。神楽陽子はキャラクターの女の子たちに対していつも優しい。その優しさこそが物語世界を心地よいものにし、それゆえに僕は神楽陽子作品が好きなのだとしみじみと思う。
 ちなみにキャラクターの女の子に対して優しくないエロ小説の筆頭は「孕ませ」であるというのに異論はないと思うが、少なくとも二次元ドリーム文庫における神楽陽子作品に、孕ませは存在しない。ただしこの作品に登場する女の子のうちのひとり、杏樹ことラヴハート・アンジェには、母乳が出るという設定がある。それに対する説明はこうである。

 ラヴハートの有する魔力がホルモンのバランスに影響を与え、胸肉をここまで育てたのみならず、こうしてミルクを搾り出すことも可能なのである。もっとも、母乳の分泌はアンジェだけに限定される。

 美少女戦士という設定はすごく便利だな、と思う。美少女戦士だから際どい衣装だし、母乳も出る。なにか文句あっか、という話だ。ジョージ・ルーカスの、宇宙では空気がないから音なんか出ないのではないかという指摘に対する、「俺の宇宙では出るんだよ」にも似た痛快さがある。あるいはしずかちゃんをなるべく裸にしたいFが編み出した、「しずかちゃんは大のお風呂好き」という設定のようだ。作者がどうしてもかなえたい部分は、力技でねじ伏せればいいのだ。経産婦にするわけにはいかないけど、母乳プレイがしたかったのだ。実際、ラヴハートの他のふたり、口淫が得意なクール系ショートカット美少女ユラと、最も体が小さいのに最も胸が大きい無邪気系ツインテール美少女リリアンに対し、メイン的な扱いであるがゆえにいまいち特出したポイントに欠けるアンジェには、どうしたって母乳という武器が必要だったのだろうと思う。
 さらに言えば、前作までは無数の男たちによる度重なる射精という派手なシーンがあったが、今作からは男がひとりなので、もちろん主人公の射精量は一般平均に較べて並外れているとは言え、どうしたって迫力不足にならざるを得ず、そこに二次元ドリームノベルス畑でこれまでやってきた神楽陽子は、若干の不安があったのではないかと思われるが、アンジェの母乳はその部分もカバーし、主人公の射精ののち、女の子たちも追って果ててゆく中で、アンジェだけは昇天の際に、『張り詰めた桜色の突起から大量噴射を開始する。』のである。
 衛の射精はこうである。

 ビュルルルルル! ドプッ! ドプドプドプドプ! ビュクビュクッ!
 ビクン! ドビュビュビュビュビュ! ビクビクビクッドクドクドクドク!

 2行である。ちなみにこれまで文字を絵のように眺めていたのか、あまり意識していなかったが、今回こうやって一字一句を間違えないよう打ち込んでみて、なんだこれ、といまさらながら思った。ただし今回は話が散漫になるので、シャノマトペ(僕が過去に考えた造語である)についてはまた別の機会でじっくり語ろうと思う。
 続いてアンジェの母乳の噴射はこうである。

 ドプドプドプドプ! ドクドクドク、ドクン! ドクン! ドクン!

 ほぼ一緒であり、やはりこれは個人競技となった射精の補完のために生み出された技法なのだな、と思う。その一方で、アンジェの後半の『ドクン! ドクン! ドクン!』の部分に、射精にはない、少女の胸の疼きのような気配をうっすらと感じ、それに対してほとんどの人類がまだ至っていない境地の美意識が刺激される感じがなくもない。もう自分でもなにを言っているのかよく分からない。
 そんなわけで今作は、何度も言うように二次元ドリーム文庫と二次元ドリームノベルスがいよいよ明確に分離してゆく中にあって、神楽陽子がそのことを高々と宣言する、過ぎ去ったノベルスに8回、新しい文庫に8回、締めて16回の鐘を鳴らす、16点鐘のような作品になっており、とても重要な1冊であると言える。

2025/08/30

「なりきりプリンセス」を読んで


 神楽陽子による、2冊目の二次元ドリーム文庫。刊行は2005年7月で、通し番号は22。
 今回は単刀直入に、まずあらすじを引用する。

 性奴のアリアは、瓜二つの容姿を持つワガママ姫・ミシェラの代わりに王女として生活することに。だがエッチな少女は騎士や王様に次々と淫らな奉仕を施し、戴冠式でも淫靡な姿で大騒動を巻き起こすのだった!

 1冊を読んだ立場としては、たしかにそういう話だった、でも本当にそんな簡単な話だったっけ、とも思う。話が(エロ小説としての)本筋に入るまで、これから俺はちょっとした大河ファンタジー小説を読まされるのかな、というくらいの導入があった。(エロ小説的に)いらないんじゃないか、と思わなくもないが、結局はどんな世界観であってもやることは一緒なエロ小説であればこそ、世界観にこだわる必要があるのだ、という説もある。これは同レーベルでハーレムシリーズを展開する竹内けんがインタビューで述べていたことで、読んだとき、なるほどなあと感じ入ったのでよく覚えている。
 ちなみにだが、竹内けんによるハーレムシリーズの1作目「ハーレムキャッスル」は、通し番号18でこの年の5月に刊行されている。そしてこの月には、屋形宗慶による「放課後リビドー 君もおいでよH研」も同時刊行されており、どうもこのあたりから二次元ドリーム文庫は、二次元ドリームノベルスの延長ではない、主人公の男の子に複数の女の子が群がるという、独自の路線を歩み出しつつあったのではないかと考察されるのだが、そうは言ってもまだまだ草創期であり、そこからスパッと方向転換したわけではなく、刊行順としてはそれらのあととなる今回の神楽陽子作品は、まだだいぶ二次元ドリームノベルスの色合いを強く残している。
 あらすじにあるように、物語の主人公は性奴であるアリアという少女である。性奴というワードが、ルビもなく、当たり前のように出てきて、そしてこちらも当たり前のように受け止めるのだが、「せいど」と打ち込んでも変換されないし、もしかすると世間的には馴染みのない言葉かもしれない。要するに性奴隷のことである。性奴隷だって十分に特殊な業界の言葉のような気がしないでもないが、たとえこれまでその概念がなかったとしても、字面から「性的な奴隷なのだな」ということは察せられると思う。ただし今般、性奴隷という言葉は、性に溺れた、性器を見せつけられると絶対服従してしまう、いわゆる「お前はもうちんこの奴隷だな」の、要するにただの重度の淫売のようなイメージになっているが、今回のお話というのは、ずいぶん世界観の設定が練られたファンタジー世界が舞台なので、少女アリアは生まれながらにして、社会的身分として紛うことなき奴隷であり、それも娼館に所有されている、性的な方面専門の奴隷だ、ということを断っておく。つまり端的に言えば遊女みたいなものだ。ただしアリアに、この境遇から想像されるような悲壮感は一切ないということもまた、この物語にとって重要なファクターなので、そのことも注釈しておく。それがいいことなのかどうなのかは難しい問題になってくるが、アリアは本当に生まれた頃からその環境の中に在るので、自分の立場に引け目などないし、性的な行為は自分の存在意義であり、生きがいであると感じでいる。男を気持ちよくさせると嬉しいし、それは同時に自分の気持ちよさにも繋がり、しかもそれをすると食べ物がもらえる。いいこと尽くめだとアリアは心の底から信じ、日々を暮している。
 これは本当にハッとさせられる観念で、二次元ドリーム文庫の黎明期であったからこそ生まれ得た性奴隷少女という主人公像は、こののちこのレーベルにおいて何百人、何千人と現れる、社会的地位こそ奴隷ではないが、男主人公のぱぱぼとるの奴隷となる少女たちの、剥き出しの始祖的な存在であると言える。前作「聖魔ちぇんじ!」の感想文の際に述べたように、二次元ドリーム文庫は基本的に、『女の子もエロい』『女の子は男性器および精液が大好き』『女の子は常にエッチなことをするきっかけを求めている』という三憲章の下、紡がれているわけだが、この憲章の下で紡がれる世界の憂いのなさこそが、われわれ読者を二次元ドリーム文庫に惹きつける理由なのだろうと思う。そしてアリアはその象徴であると言える。
 あらすじに戻ると、アリアは王国の姫、ミシェラと瓜二つの外見をしており、国外に遊びに行きたいミシェラはアリアの噂を聞きつけ、身代わりを依頼する。これによりアリアが姫として城内で暮すこととなる。これが普通のファンタジー小説であれば、アリア本人か、あるいはアリアを利用する悪者によって、そのまま姫になりすまして王国を乗っ取る、みたいな展開になるに違いないが、もちろん二次元ドリーム文庫ではそんなことにはならない。アリアは生きることと性欲の充足がイコールなので、宮廷内でもその活動を我慢することはない。するはずがないのだ。アリアにとって性は、まったく禁忌ではないからだ。むしろこのように考える。自分のような奴隷でさえあのくらいのことをするのだから、国の中心にいる偉い人たちなんかは、もっととんでもないことをするに違いない。お姫様の身代わりをしている以上、疑われないようにそっちの役割も立派に果たさなければ、と。この完全なる勘違いこそが、この物語の骨子である。ただし普通の物語であれば、その勘違いをした主人公が起す行為は、相手に受け入れられず、はしたない姫がいたものだ、という滑稽話で終わるだろう。しかしこれは二次元ドリーム文庫である。姫の性的な誘いを、王宮の人間たちは、はじめは戸惑いを見せつつも、結果的には応じることとなる。お付きの騎士、大臣、そして果ては姫の実の父である国王までも。こうして考えたとき、二次元ドリーム文庫というレーベルの強みを改めて感じる。若い姫が向こうからモーションをかけてきたら、男ならば応じるのが当然だ。でも普通の物語では、それは描けない。この世は性によってのみ維持され、成立しているというのに、その根源的な部分を描けない。だとすればそれはなんて脆弱で無意味な表現であろうか。アリアは一国の王に、実の娘(と信じ込ませている自分)を抱かせるという究極の禁忌を犯させることで、性を描かない、しかし性を放埓に描く物語よりも格が上であるとされる、一般的な創作物という権威を嘲笑っているのかもしれない。あるいは、みんな、みんなどうせ、脚の間に棒か穴かがあって、それをどうにかしたいってことばっかりずっと考えてるくせに、別にそんなことありませんよって顔しちゃってさ! という叫びかもしれない。
 物語は戴冠式の日へと進み、ここでミシェラ姫は王位を継承するはずだったのだが、帰還が遅れてアリアとの交代がスムーズにいかなかったせいで、戴冠式はめくるめく性の饗宴となってしまう。前作でもあった、無数の男に囲まれて精液まみれになる、二次元ドリームノベルスからの伝統芸のようなシーンである。そしてここではとうとう、本物のミシェラ姫もまた、アリアとともに性欲に溺れることとなる。その前にアリアの痴態を眺めていて、すっかり発情していたからである。もちろんミシェラは処女なのだが、しかし三憲章を思い出してほしい。処女の姫だろうがなんだろうが、女の子はいつだって性欲に溺れるきっかけを求めているのだ。ふたりの少女の興奮は、やがて戴冠式を見物しに来た観客にまで伝播し、『オルティッツ公国の威信をかけた戴冠式が、いまや国民総出のセックス祭。』(原文)となる。
 そのあとの顛末はどうなったかと言えば、騒動の原因であるアリアだったが、なんだかんだで許され、ミシェラとは仲良く過し、そして夜は王宮内で、お姫様そっくりの売女として家臣たちの歪んだ性欲の相手をするのだった、というハッピーなエンディングで、直接の描写はないけれど、お姫様そっくりの売女は、時としてひそかにお姫様本人なのだろうなあ、ということも窺わせるのだった。
 つまり前作「聖魔ちぇんじ」と一緒で、やはりとことん、『女の子もエロい』というモットーで、そしてそれこそがこの世の唯一最強の平和の法則なのだという、確固たる理念によって書かれた物語だな、ということを感じた2冊目だった。すばらしかった。
 ただし冒頭でも書いたように、レーベルの方向性はだんだん定まりつつあり、女の子が主人公で、無数の男を相手にする、というスタイルの作品は、神楽陽子に関してはここまでで、このあとは基本的にひとりの男を相手に展開する物語となる。それはもちろんかなり重要な転換点なのだが、しかしそれは決して価値観がひっくり返るような変化ではない。理念はもちろん継承された上で、物語の形式は流転する。次作以降の感想文でそれについて語っていこうと思う。
 

2025/07/26

「聖魔ちぇんじ!」を読んで


 神楽陽子における二次元ドリーム文庫の1冊目である。レーベルの通し番号は栄光の一桁台、「09」。発売は2004年の12月で、もう20年以上前ということになる。ちなみに2004年のベストセラーは、「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」「世界の中心で、愛を叫ぶ」「バカの壁」などで、そういう時代に二次元ドリーム文庫はその歴史が始まったのだった。当時、僕は大学3年生。であればちょうど書店でバイトを始めた時期ということになり、それから8年余り続く僕の書店員ライフと二次元ドリーム文庫は、二重螺旋のように濃密に絡まり合うことが運命づけられていたのかもしれないと思えてくる。
 もっとも僕が二次元ドリーム文庫を「発見」するのはもう少し先のことであり、それ以前の古い刊行物は、あとから遡って手に入れ、読んだのだった。当然、著者1冊目であるこの作もそのひとつだ。ちなみに、これはあえて言うまでもないことのように思えるが、先ほどから言っている1冊目というのは、あくまで二次元ドリーム文庫に限っての話であり、神楽陽子はそれ以前に二次元ドリームノベルスのほうで著作を出している。
 神楽陽子の二次元ドリーム文庫作品を読み返し、感想文を書いてゆくにあたり、この二次元ドリームノベルスという存在に触れないわけにはいかない。
 二次元ドリームノベルスは、前世紀から刊行が始まり、そしてなんと文庫が休眠した現在においても、デジタルながら新作が刊行され続けている、もはや妖怪のようなレーベルであり、僕はこちらに関してはほとんど手を出していないのだが、その大体の特徴としては、「主人公は女の子」であり、それは「魔法少女だったり女戦士だったり女性捜査官だったり」し、そして「圧倒的な力を持っていたり、大人数だったりする男性、あるいは触手」に、「ひたすら蹂躙される」、という内容となっており、いまも刊行され続けているということは、この様式に対して本当に根強い支持層が存在するということになる。野球も、相撲も、いつまで同じことやっとんねん、などと思ったりするが、本当に心の底から好きだったら、同じことが同じように、いつまでも営まれ続けていることほど尊いことはないだろうと思う。刊行がストップしてしまった二次元ドリーム文庫好きとして、しみじみとそう思う。
 二次元ドリーム文庫は、ノベルスから独立し、そして結果として行き詰ってしまったわけだが、そんな僕の愛した、二次元ドリーム文庫のオリジナル色が出る前、つまり独立した直後は、まだだいぶノベルスの雰囲気を残していた。そもそもの編集部としてのコンセプトがどういうものだったのかはもちろん判らないが、独自色を出そうという意図はあまりなく、文庫判なのでノベルス判よりも持ち運びやすい、くらいのコンセプトだったのかもしれない。
 そんな長い前置きのあとで、話はようやく「聖魔ちぇんじ!」の内容へと至る。
 あらすじはこうである。

 正義の変身ヒロインと悪戯好きな悪魔っ娘。ライバル同士の二人の身体がとある事件で突然チェンジ!二人それぞれに「コイツの身体をエッチな目に遭わせちゃえ!」と巻き起こしていくハプニングの数々に、街はもう大混乱!?

 登場人物は、ホーリーハートに変身して町を守る鹿島翠と、悪魔の少女ナナコ=アラストル、そして翠の幼なじみである舞木祐一。あらすじにあるように、天使と悪魔的な少女ふたりが、格闘の末に精神が入れ替わってしまう。そこで、それぞれにとって憎い相手である互いの身体を使い、貶めてやろうと痴女行為を行なう、というのがこの物語のストーリーである。
 後世の二次元ドリーム文庫読みとしては、翠の幼なじみである祐一を取り合う展開となるのだな、と確信するのだが、ノベルスの遺伝子を色濃く残す初期作はそう一筋縄ではいかず、翠の身体になったナナコが、その晩に祐一を誘惑して行為に至るまでは想像通りだったが、そのシーンを目撃してしまった、ナナコの身体になっている翠は、なぜかそこに乱入することはなく、深夜の公園へと飛び出し、そこで見知らぬ汚いおっさんと、なんの愛情もないセックスをしてしまう。ナナコはサキュバス的な悪魔という設定のようで、男性経験は豊富なのだが(この設定もまた、のちの二次元ドリーム文庫読みとしては衝撃がある)、身体こそナナコのものでも、精神は処女である翠である。それなのにこんなひどいセックスで快楽を覚えてしまうなんて、これは淫売なナナコの身体のせいだわ、と翠は思う。
 ここにこの物語のポイントがある。
 このあと、それぞれの少女は本格的に、相手を貶めるためという言い訳をしながら、町中で痴女行為を繰り広げる。十数本の男性器に囲まれて一斉射精される、二次元ドリームノベルスのお家芸のような場面が展開される。ナナコの身体にある翠の精神は、この行為の乍中にあって、なおも「これはナナコの身体のせい」と自分に言い聞かせるのだが、それが真実でないことは、読者はもちろんのこと、翠自身も気付いている。実際、このくだりの最中に、翠とナナコの精神はふたたび入れ替わり、つまり元通りになるのだが、淫魔であるナナコはもちろんのこと、ホーリーハートである翠もまた、悦楽に溺れ、悦びながら、知らない男たちの無数のぱぱぼとるに蹂躙され続ける。
 すなわち、翠もナナコに負けず劣らず、スケベだったのである。
 この物語が、この設定を用いて表現したかったのは、この部分だろうと思う。黎明期でしかあり得なかった、女の子が主人公で、メインキャラクター以外とも性行為をするという内容であったからこそ活写することができた主題だと言える。
 それは単にこの1冊の小説の主題ではない。二次元ドリーム文庫というレーベルそのものの主題だし、さらに大きく言うならば、この世界の主題でもある。
 つまり、『女の子もエロい』ということである。
 主題と言ってもいいし、いっそ憲章として高く掲げてもいい。
 二次元ドリーム文庫は、それが絶対的な約束として保障されているのだ。
『女の子もエロい』
『女の子は男性器および精液が大好き』
『女の子は常にエッチなことをするきっかけを求めている』
 この3つを三憲章として、二次元ドリーム文庫は成立している。いまどきの言葉で言うなら、プロンプトということになる。そういうルールですべての物語は生成されている。やがて主人公は男が主になって、そこから新しい憲章が追加されてゆくが、元始の二次元ドリーム文庫はそうだったし、つまり真核の部分はそこだということになる。「聖魔ちぇんじ!」はわれわれにそのことを教えてくれる。
 ヒロインが無数の男に囲まれて精液まみれになる、中盤から終盤にかけての場面は、いわゆるヌキどころとしてはピークということになるが、実はこの流れの中に、祐一は一切登場しない。ここがすごい。さすがは黎明期。しかし、じゃあ祐一は序盤で、翠の身体のナナコとセックスをした以外は出番がないのかと言えば、さすがにそんなことはない。
 最終盤、男たちの集団との行為を終え(ちなみにナナコの魔法により、男たちにとってこの出来事はすべて夢の中のことと思うようにされている。とても便利である)、 ナナコと翠は語り合う。

「あーあ。もうちょっとイキたかったんだけどなあ……」
 翠も同じ気持ちであたりを見まわす。まだ足りない。もっとイキたい。そんなとき、ナナコがぼそっと呟いた。
「ユウイチとしようかな……」
 黒衣の淫魔が顔を真っ赤にする。
「ね、ねえナナコ。祐一くんのおちん〇んって……どんなのかしら?」
 大好きな祐一のペニスに興味を持った翠が質問すると、ナナコが誇らしげに答えた。
「えへへ、すっごくおっきいの! フェラチオしてるとね、おくちの中がいっぱいになって、舐めるのがやっとで……」
 話を聞くや祐一のペニスをしゃぶりたくてたまらなくなった、はしたない翠。ぽかんと開いた口から涎を垂らす。
「あはは! ミドリったら、ヤっらしー!」
「そ、それは……でも……美味しそうなんだもの」
 いつのまにかエッチが大好きになってしまった自分がちょっと恥ずかしい。

 そしてすっかり仲良くなったふたりはともに祐一のもとへと向かい、祐一は戸惑いつつも、スケベな女の子ふたりから誘惑され、巨根を弄ばれるめくるめく日々が始まるのだった、というのがこの物語のラストで、主人公(ではないが)の少年が巨根の絶倫というのは、このあとの二次元ドリーム文庫の流れからすれば順当だと言えるが、驚くべきは、翠と祐一は作品内でとうとういちどもセックスをしない、という点である。翠の身体のナナコとはしているが、精神的な意味で翠とはセックスをしない。最後に「それ以降ふたりとセックスまみれの日々である」みたいな記述はあるが、描かれないのだ。これものちの時代では考えられない。そもそもヒロインの(精神的な)初めての相手が、深夜の公園にいた汚いおっさんという時点で、大ブーイングだろうと思う。
 そう考えれば、「昔は大らかだった」という、ありきたりな、しかしたしかにそうである結論が導き出される。この手のジャンルの創作物というのは、厳正さが極まった結果、がんじがらめとなり、身動きが取れなくなって潰えたのではないかという印象もあり、これから刊行順に読み進めることで、そのあたりのことも探っていければと思う。
 さすがは通し番号一桁台なだけあり、きちんとその時代性を表していて、やはり神楽陽子を軸にして二次元ドリーム文庫の歴史を振り返るのは正しいな、ということを実感した、いい1冊目だった。